絶望を埋めるものとは?(「代替医療の光と闇」を読んで)

催眠にどハマリして痛い目にあった私ですが(いまだ信者ですけど)、そんな自分を見つめ直すため、
代替医療の光と闇 魔法を信じるかい?」(ポール・オフィット)を再読してみました。

第一部 現代医療への不信
第二部 ナチュラルなものの魅力
第三部 小さなサプリメーカー対巨大製薬会社
第四部 代替医療にスターは輝く
第五部 希望ビジネス
第六部 カリスマ治療師には抵抗しがたい
第七部 代替医療に実際に効くものがあるのはなぜか

いかがでしょう?目次だけでも、とても面白くないですか?どの内容もとても興味深い内容になっています。

私が最も印象に残っているのは、自閉症の話とエピローグです。
自閉症科学財団を設立したアリソン・シンガーさんは、娘が自閉症で、治れば幸せになれると必死に治療法をさがします。代替医療をたくさん試します。
娘が生まれたとき、娘の将来のことや、経験するだろう喜びについて考えたけど実際の人生はそれとは違ったものになりました。
そして、それを受け入るまで長い時間がかかります。そして、受け入れたときにようやく、科学的データに基づいた支援法に巡り会いました。
私は毎回、この話は涙なしには読めません。

私もずっと具合が悪いので、気持ちがわかるように思います。
全然思うように生きられなかった。あきらめなくてはならないことがたくさんありました。
それでも生きていたかった。でも、医療ではなかなか結果が出ない。
そんなとき、「この方法なら良くなるよ」「その苦しみから解放されるよ」「思い描いていた人生が取り戻せるよ」
なんて、ささやかれたら、苦しんでいればいるほど、飛びつくよね、と思う。
自分のかわいいかわいい、自分より大事な子どもが苦しんでいたら、なおさらだよね、と思う。
世の中、どうにもできないことがたくさんあるとわかっていても。何で私がって思うと思う。


また、「エピローグ アルベルト・シュバイツァーと呪術医ーある寓話」が秀逸です。この3ページを読むだけでも一生役立つと思います。
アフリカの呪術医は、軽い病気には薬草(プラセボ医療)、心理的問題にはまじない(アフリカ流心理療法)、呪術医が治せない病気の人にはシュバイツァー博士を指さしました。
医療と代替医療には、それぞれの領域があること、医療と代替医療の望ましい共存のかたち、望ましくない関係のかたちを3ページで見事にあらわしています。
感情に押し流されることなく、呪術医のように理性的に判断していけるようになりたいと思います。

私が受けた催眠の効果について(劇的に心が穏やかになりました)

私は2019年12月に2回催眠を受けました。そして、催眠状態を経験することで、劇的な効果がありました。
受けた後、3から4日くらい、心がとても穏やかになったのです。

私は、自分のことをよく、「ろくに働けないダメな人間だ」「夫は仕事も家事も育児もしてるのに、私は何もできていない」と思っていました。
罪悪感や劣等感の固まりでした。
いつも疲れていて、憂うつで、よく悲しい気分になりました。ぐったりして起き上がれなくなったり、怖い気分になることもありました。
そういうのが、すべて消えてなくなりました。というか、催眠を受けるまで、自分がそんなに疲れていると思いもしませんでした。

いわゆる「病識がない」というのでしょうか。夫や医療関係者に問題を指摘されても、まったく自覚がなかったです。
「大変ですね」「ストレスが大きい」と言われても、「え?いつもこうだし」「大変なことは何もしてないし」という感じでした。

催眠を受けることで、理想の状態をつかめたのは、私の人生において、大きな収穫です。
先生は、そんな暗示は入れていないし、私もそういうつもりで行ったわけではないのです。
しかし、催眠状態になることで、上記のような驚くような効果がありました。

今、「世界のエリートがやっている最高の休息法」(久賀谷亮)という本を読んでいます。

世界のエリートがやっている 最高の休息法――「脳科学×瞑想」で集中力が高まる

世界のエリートがやっている 最高の休息法――「脳科学×瞑想」で集中力が高まる

「脳が意識的な活動をしていないときに働くデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)が過剰に働くと脳は疲れる。瞑想はDMNの活動を抑える」というような内容の本です。

催眠もDMNの活動を強力に抑えるのかもしれないと思いました。脳の仕組みや、催眠のときの脳の活動の様子を知りたいと思いました。

願ったことは、結構叶ってしまうのではないかという話

「催眠で骨粗鬆症は治るか」という話を家族でしていて、「治ると思う」と言ったら、娘に「信者だ!」と言われました(信者なんですけど)。

治るは言い過ぎかもしれないけれど、お金払って催眠かけてもらったら、その後、気にするようになると思うんですよ。催眠、結構高いし。
服薬もきっちりするようになると思うし(もちろん、医療は必ず受ける)、
スーパーに行ったら、牛乳やらヨーグルトやら小魚やらカルシウムが気になると思うんですよ。そしたら、当然、食べますよね。
運動もしようって考えると思うんです。骨粗鬆症に意識が向くようになると思うのです。
その結果、骨は元気になることが多いのかなと。信じる者は救われる。天はみずから助くる者を助く。

これって、もしかして信者度低いのでしょうか?

催眠でも催眠でなくても、やりたいと思うことはできるようになると、私は基本的に思っています。
できないことは通常望まないし、本当にやりたいとは思っていないことは、できなくても仕方ない。
そんなふうに思って生きています。プラセボも思い込みも力にしていけたらいいなと思う。


催眠に関しては、私はわかっていなくて、これからできるようになりたいと思っています。この記事の内容は催眠についてのものではありません。

「意志あれば道あり」を生で見た:南にいけば、着くんです!(ニューギニアで遺骨を拾う)

確か、平成24年あたりの加須市民カレッジだったと思うのですが、国際交流の講座がありました。
海外生活体験者の話を聞くという内容です。4名の方々が話しました。

どの話も大変興味深かったですが、特に印象に残ったのは、パプアニューギニアで太平洋戦争の戦死者の遺骨を拾った西村幸吉さんのお話でした。

家族にお金を残し、古い漁船を手に入れて、ニューギニアに行った西村さん。
ニューギニアの人は西村さんが日本からきたと言っても信じなかったそうです。ボロボロの小さい漁船で、日本から来られるとは、とても思えなかったのでしょう。
「南に行けば、(ニューギニアに)着くんです!」言い切るその様子に感動しました。
当時、車いすでしたが、とてもお元気に話して下さいました。(現在はもうお亡くなりになっているようです。)

事業で成功しても、家庭を築いていても、それらを捨ててでも、遺骨を拾いに遠いニューギニアまで行く。
西村さんは語りませんでしたが、戦争とはひどく重いもので、何十年たってもその影響は残り、人を突き動かす力があるのでしょう。

南に行けば着くかもしれない。でも、南に行く人、行かない人、違う場所に行く人、様々な選択肢があると思います。
西村さんは強い意志をもって、南に行きました。
私はどこに行くのか?どうやって生きるのか?
強い意志があってもなくても、人生は続きます。

日記:くだらないものの積み重ねが人生をつくる

2月16日のbutyu家の日常です。

娘は「魔入りました!入間くん」を読んで、大笑いしています。通常運転です。いきなり大声で笑い出すので、心臓に悪い。
息子は「ねこねこどうが」を見て、大笑い。「何、真似しちゃってるの!」とこちらも突然叫ぶので、びっくりします。
www.nhk.or.jp


夫がロイヤルブレッドを買ってきたことを知り、娘がロイヤルブレッドのコマーシャルの歌を歌い始めます。
ママが娘に合わせて歌います。娘は歌詞を「もきゅもきゅ」に変えて歌います。ママももきゅもきゅ歌います。
パパが「うるさいなー。食べたいなら食べれば」と言います。「別に食べたいわけじゃないよ」と娘。歌は終わりません。

昼食後、息子がパパと購入したアイスを食べます。ママにも分けてくれます。
「ママはこれ(チョコ)がいい?」「ママはこれ(チョコ&バニラ。チョコは娘が好きだから。)がいいかな」「ママは黒白がいいんだね」
息子が2つめを食べようとして、止められます。「3時になってから」。息子は長い針が3のとき、3時と考えます。
ときは13時10分。13時15分で、なぜ食べてはいけないのかわからず、大騒ぎ。さすがママが購入を自主規制する、うずまきソフト。すごい魔力です。

ママがヨガ教室から帰ると、娘がご機嫌です。バドミントンのラケットをびゅんびゅん振り回してニコニコ暴れています。
どうやら夫が居眠りしたすきに、おやつをたくさん食べた様子。ママの帰宅の物音を聞いて、ささっとおやつのゴミを片づけていたらしい。おやつハイでしょうか。
娘は、弟が工作したくびふりうさぎの首をとってしまい、パパに直してもらって安心して眠りました。

この日は七五三でも、結婚式でもありません。ディズニーランドにも海外にも行っていない。「特別」な日では、ないのです。
だから、この日の出来事を、10年後には、きっと誰も覚えていない。写真もないし、誰かに話すような出来事でもないし、家族が笑顔になっただけ。
けれど、こういうくだらないことの積み重ねが、幸せを作っていくと私は信じています。こういう日常を過ごすことで、人間や人生への信頼が増していくのだと思うのです。

長い目で見て、良い方向に(モチベーション3.0時代を生きる)

娘が学校に行きたがらない件で、スクールカウンセリングを受けました。担任の先生から、専門家の意見を聞いた方がよいと勧められたためです。
そこで「お母さんはどうしたいですか?」と聞かれました。
「長い目で見て、良い方向に行けるといいと思う。ただ、家で学習するとなると、どうやって、能力を伸ばしていけばよいのか、よくわからない」と答えました。
娘は「放っておいていいよ」と言うと思うけれど。

「モチベーション3.0 持続するやる気!をいかに引き出すか」(ダニエル・ピンク)を読みました。

生存のための1.0、アメとムチの2.0を経て、現代は内発的動機がモチベーションとして重要らしい。
クリエイティブなものだと、報酬(外発的動機)により、成果が落ちることもあるようです。自律性、マスタリー(熟達)、目的が大事なようです。

娘が一度、絵画で賞を取ったことがあります。その2年後、祖父が「あの後、賞取ったの?また取るんだよ」と言っていたことがありました。
賞を取るのは良いことかもしれないけれど、それが目的になるのは、ちょっと違うように思います。
今は、色々なものに触れて、興味・関心の幅を広くして、自分が何が好きなのか、試行錯誤するときなのではないかと思うのです。
成績良く、作文でも絵画でも習字でも賞を取っていた私が、何にもできない人間なのですから!

アメやムチである程度学校に適応すれば、親は確かにみんなと同じだと安心する。でも、それで無気力になったりしたら、将来的には大きな損失でしょう。


チクセントミハイさんは「好きなようにさせれば、子ども達はフローを見つけ出す」と指摘しているそうです。
娘が夢中になるものを邪魔することは、なるべくしたくないです。

ないとさみしいものがある幸せ(すでに手にしているものを考えてみる)

近くの短大のサロン発表会(公開講座の受講生の発表会)では、講師の先生達の演奏があります。
ピアノの先生は二人ですが、そのうち一人の先生が、手をケガして、しばらくピアノが弾けないことがあったそうです。
そのとき、「ピアノが弾けないのは、こんなにさみしいものか」と思ったそうです。


私が、最近、自分を見つめて思うことは、「私って、とくに優れたところないよね」ということです。
ブログを始めて、ブログの書き方などを調べてみると、「自分の専門性やスキルを生かそう」「読者のニーズに応えよう」という内容が多いです。
それを読んで、「専門性もスキルも、何にもないよ」と思います。
これから、専門性を身につけるべきなのか?人生を棚卸しして、何か見つけるべきなのか?私には、よくわからない。

ただ、専門性はないけれど、「ないとさみしいもの」なら、たくさんあります。
夫も子ども達も、ピアノも多肉植物も、読書の時間も、ブログもツイッターも、
なかったら、ものすごくさみしい。

そして、「ないとさみしいものがある」ということは「幸せを手にしている」ということだと思います。
平日30分くらいしか練習していない下手なピアノでも、ないとさみしいなら、私にとっては大きな資産です。


講師の先生方が、ピアノへの感謝をこめて弾いた、いきものがかりの「ありがとう」は、とても素晴らしかったです。
このひとときの経験も私には宝物です。


この歳で専門もなく生きていけるなんて、たぶん、異様に恵まれているのだと思います。
とりあえず、今のところ、飢えて死ぬことはなさそうなので、ここにある幸せに感謝しながら、これからの生き方も考えたいです。