ないとさみしいものがある幸せ(すでに手にしているものを考えてみる)

近くの短大のサロン発表会(公開講座の受講生の発表会)では、講師の先生達の演奏があります。
ピアノの先生は二人ですが、そのうち一人の先生が、手をケガして、しばらくピアノが弾けないことがあったそうです。
そのとき、「ピアノが弾けないのは、こんなにさみしいものか」と思ったそうです。


私が、最近、自分を見つめて思うことは、「私って、とくに優れたところないよね」ということです。
ブログを始めて、ブログの書き方などを調べてみると、「自分の専門性やスキルを生かそう」「読者のニーズに応えよう」という内容が多いです。
それを読んで、「専門性もスキルも、何にもないよ」と思います。
これから、専門性を身につけるべきなのか?人生を棚卸しして、何か見つけるべきなのか?私には、よくわからない。

ただ、専門性はないけれど、「ないとさみしいもの」なら、たくさんあります。
夫も子ども達も、ピアノも多肉植物も、読書の時間も、ブログもツイッターも、
なかったら、ものすごくさみしい。

そして、「ないとさみしいものがある」ということは「幸せを手にしている」ということだと思います。
平日30分くらいしか練習していない下手なピアノでも、ないとさみしいなら、私にとっては大きな資産です。


講師の先生方が、ピアノへの感謝をこめて弾いた、いきものがかりの「ありがとう」は、とても素晴らしかったです。
このひとときの経験も私には宝物です。


この歳で専門もなく生きていけるなんて、たぶん、異様に恵まれているのだと思います。
とりあえず、今のところ、飢えて死ぬことはなさそうなので、ここにある幸せに感謝しながら、これからの生き方も考えたいです。